たまに遊びで書いてみる駄文(無推敲)
聞いたのは誰でもない僕であった。
「アルキメデスだよ」
答えたのも僕。同じ僕であり、違う僕である。
内面世界というものは有用であり無用でもある。
僕の中には複数名の僕がいる。
問いかける僕。答える僕。迷う僕。憤る僕。そして、それを見て嘲う僕。
全ての僕が共有の情報を持っているはずであるなのに、
全てが違う情報を持っていて、当初書いたような状況が生まれる。
この意思の統一が行われていれば、こういった時間のかかるプロセスを
踏めるのではないかと考える。
が、意思の統一は人間自身の崩壊に近いところがある。
その時僕は僕であることができるのだろうか?
考えることは無いが、面白みがなくなってしまうのではないのでは無いだろうか?
前者4人の僕は僕の思考状態を作るために必要な存在。
そして、最後の僕はその思考状態を見て笑い、その問題を重要性を薄める。
嘲う僕の意義である問題の重要性を薄めるということは、危機感の喪失をさせるので、
必要性が無いかと思うときもあるが、問題は全てを危機感で包むと
答える僕にプレッシャーを与え、答えることに迷いを生ませてしまうのだ。
同じく、相であるならば迷う僕も必要性が無いように思えるが、
彼は一種のアブソーブであり、答える僕に余裕を与える。
つまり、最終決定する答える僕は保守的でプレッシャーに弱いといという、
僕の根本的な内面の象徴なのである。
ま、なんてね。