たまに遊びで書いてみる駄文(無推敲)


「裸で走ったのはアルキメデスだっけ?ソクラテスだっけ?」

聞いたのは誰でもない僕であった。

「アルキメデスだよ」

答えたのも僕。同じ僕であり、違う僕である。

内面世界というものは有用であり無用でもある。

僕の中には複数名の僕がいる。

問いかける僕。答える僕。迷う僕。憤る僕。そして、それを見て嘲う僕。

全ての僕が共有の情報を持っているはずであるなのに、

全てが違う情報を持っていて、当初書いたような状況が生まれる。

この意思の統一が行われていれば、こういった時間のかかるプロセスを

踏めるのではないかと考える。

が、意思の統一は人間自身の崩壊に近いところがある。

その時僕は僕であることができるのだろうか?

考えることは無いが、面白みがなくなってしまうのではないのでは無いだろうか?

前者4人の僕は僕の思考状態を作るために必要な存在。

そして、最後の僕はその思考状態を見て笑い、その問題を重要性を薄める。

嘲う僕の意義である問題の重要性を薄めるということは、危機感の喪失をさせるので、

必要性が無いかと思うときもあるが、問題は全てを危機感で包むと

答える僕にプレッシャーを与え、答えることに迷いを生ませてしまうのだ。

同じく、相であるならば迷う僕も必要性が無いように思えるが、

彼は一種のアブソーブであり、答える僕に余裕を与える。

つまり、最終決定する答える僕は保守的でプレッシャーに弱いといという、

僕の根本的な内面の象徴なのである。

 

 

 

 

ま、なんてね。

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